おはようございます
le vent です
老人という差別用語を使って表すこの諺です 他に深い意味と解釈があるのでしょうが le vent にとっては 読んで字のごとし です 高齢になってからの時間に残っているものは 過ごしてきた長い時に伴う経験と思い出です 最近はあまり聞くこともない 棺桶に片足を突っ込みながら・・と揶揄したり自嘲する言い方も 希望の無さ未来に夢の無さを 表しているように思います
さあ後何年かな とか その時はどんな気分かな とか 消えて行く時への不安と諦めが常に付きまといます それを忘れるために或は受け入れるために 健康という掛け声で奮い立たしているのかもしれません その一方 無垢な赤ちゃんを見るとその将来への長い時間に明るさを見出し 気分も晴れやかになります
認知症になると 近過去は思いだせなくとも遠い過去はよく覚えている と耳にしたことがあります ブログを書いていても 幼い頃の記憶は鮮明ですが その後は時間が長すぎ 辿るとあれもこれもと事柄が多すぎ 特定して思いだすことも必要になります ヒトは忘れるから生きていけるとも聞いたこともあります その時々の心情や印象的なことなども思いだせますが 幼い頃の記憶と違い 多くの他動的な要素も絡まり多種多様で複雑で 簡単には表現できないものです 時の流と経験は思い出も複雑にします
赤ちゃんは毎日毎日五感すべてが初めてのこととして経験し 成長するにつれ経験も重なり当たり前のこととして記憶されるのでしょう その中で取捨選択 都合よく記憶に残るのではないかと思うのです le vent は今やその集大成の地点に到達しています 記憶用の白いキャンパスは恐らく真っ黒になっています 近過去の思い出をその真っ黒の中から引きだすのは 認知症でなくとも面倒臭い気もします 幼い頃の経験の方が白いキャンパスに深く染み込み 記憶も深くなっているのかもしれません
老人が昔の記憶を語るのは仕方のないことです それしかないのですから 記憶のキャンパスの空白や重ねた色の薄いところはもう無く また新しい記憶は役に立ちません 老人の昔語りを聞くことは 他人の自慢話を聞くようなつまらない退屈なことで 時代を共有できる仲間が一番です 限りある生命の生き物の世界では生と死は宿命ですが 自らが老人になって初めて 昔語りの老人ゆえの価値を理解できるように思います だからと言って老人の昔語りの相手は・・・嫌でしょ