教職 聖職

地平線の夕日

おはようございます

le vent です

近所に 最近小学校の新人教師になったお孫さんを持つ方がいます  時々 初々しい勤務の様子を間接的に聞くのです 昔とは 先生も子供も学校も違うんだなあと 感じさせてくれる新人教師です

今とは世情も違う昔 le vent の育った地域では 教職は聖職 教師は聖職者 と普通に言われていたのです 先生という敬称が付く職業は 教師 医師 議員等で 理由の如何は問わず一目置かれていました 特に校長先生は地区の名士代表で イベントの来賓席には 必ずその姿がありました

議員という職業は正体のわからないものでしたが お医者さんや学校の先生は当然ながら身近な存在で威厳がありました 親は「先生のお話をよく聞きなさい」「先生に言いつけるから・・」とか 先生の存在をしつけの一つの手軽な手段として利用することも多く 子供は先生に告げ口されたら困ると単純に恐れを抱き 子供心にも先生は正義なのだと信じていたように思います 

一方 小学校の頃すでに先生達への子供達の評価はあって あの先生は依怙贔屓ばっかりするからいやだ すぐ叩かれる すぐ怒るから怖いよ など新学期の担任発表時には 子供達同士の情報交換があったのです パワハラ モラハラ等の芽です 担任への不満を親に告げ口しても それはあなた方が悪いからよ と親も先生側に立つことも多く子供の声に耳を傾けることより 先生を信頼していたのです   

しかし「でもしか先生」の多かった時代です 親たちが先生を本当に信頼していたのかは分かりません 心の奥底には 子供を担任に学校に人質に取られている という漠然とした不安と現実性があったかもしれません 子供が人質である という心配は今も消えることはなく お母さん方に引き継がれています

学校という環境はよくも悪くも特殊で閉鎖的です 保護者が学校や担任に少しでも意に添わない意見や苦情を言ったりするものなら 必ずマークされるのです 反発は必ずその親の子供にきます 子供が人質というのはそういうことです そのことは保護者たちはほぼ認識しています ですから学校へ意見や苦情は言えません 

教育は50年100年という長い時間を必要とするもの 文部大臣(当時)が国会でどの位置の席に座っているかで 国の教育に対する姿勢が見える と講義を受けたのです 現在の教育はその現場を含めて 50年100年前に始まった教育政策 行政の成果ともいえるのかもしれません 

最近 企業をはじめ様々な職場の責任者の謝罪というTVの場面に出会いますが 比較して一番みっともなくて歯切れの悪いのが学校関係者 教育委員会関係者の謝罪です 教育者でありながら子供たちに恥ずかしくないのかといつも感じます 自己保身 弁護のみが際立だって見える気がします 身分を侵害されない聖域の職業だから聖職と言われたのでしょうか 子供たちの安全を守る高く強固な学校の塀は 教職者の中には何かと都合のよい塀かもしれない と疑いたくなります 

   

 

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